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2010-01-31

蒲原城に行ってきました

 1/24、蒲原城、久能城、興国寺城、葛山城&館に行ってきました。まずは蒲原城からです。
 この城の本曲輪に立って思うのは、この城こそ、駿河国一の要衝と言っても差し支えないであろうことです。眼下に東海道を見下ろし、東西に広がる駿河国全域を視野に収め、さらに駿河湾を航行する船舶まで監視できる絶好のポイントにこの城は築かれています。
 天文年間の「河東一乱」の頃は富士川西岸という立地条件を生かした今川家の番城として北条家の西進を阻み、永禄十一年(1568)の甲相駿三国同盟破綻時には、信玄の南下を押さえ(最終的には落城)、武田家のものとなって後は、その東進のための兵站基地の役割を果たしました。常にこの城が取り合いとなるのは、その立地に起因していることは言うまでもありません。
 またこの城は、激戦の末に落城という稀有な経験をした城の一つとして銘記されるべきでしょう。徹底抗戦の末に落城という経過をたどった城は、実は意外に少なく、戦う前に自落撤退か、戦った末に降伏開城という結末を迎える城が大半です。
 むろん、その合戦経過は明確な記録に残されていませんが、信玄率いる武田勢主力の前に、城将と幹部が全員、壮絶な討死にを遂げたことは確かです。特に、城将として入っていた北条幻庵次男の氏信は将来を嘱望されていたらしく、北条家にとり、たいへんな打撃だったことでしょう。さらに、この城では、氏信の弟で、わずか十六歳の箱根少将長順も討死にを遂げました。幻庵の第三子として箱根権現の別当になるべく育てられてきた長順が、いかなる理由から、蒲原城に入っていたかは定かではありません。そこには歴史の海に埋没した何らかのドラマがあるような気がしてなりません。
 さてこの城は、今川家、北条家、武田家、徳川家とその所有者を変遷させてきましたが、最終形は永禄十二年(1569)の落城時のものと思って差し支えないと思われます。つまり、北条家の手によるものです。
その理由は、搦手である北方の構えが堅固なことです。これは、北から来る武田家に対する押さえとして、北条家が相当の手を入れていたと思われるからです。特に、善福寺曲輪下の枡形状遺構(屈曲スロープ型枡形虎口か)、また、西に続く畝堀は北条家の得意とするものです。搦手道は現行の登攀路とは異なり、北端の大堀切と前述の枡形遺構をうまく使った防御が施されていたものと推測されます。
大手道は創築した今川家のものを踏襲し、西にあります(多分)。西の谷あいには、現在、農地となっている大きな二つの曲輪とそれを取り巻く削平地群があり、おそらく居館のようなものもここにあったと思われます。ただし農地として、かなりの改変が加えられていますので、明確なルートは不明です。
石垣は、写真にあるように野面積みで腰巻です。思った以上にしっかり残っていますので、石垣数寄にはたまらないはずです。この石垣も、北の守りを重視して造られていますので、北条家の手になるものでしょう。
惜しむらくは東名高速の工事で低地部の遺構が破壊されている点です。ほかの残り具合からして、東名のルートを少し変えてくれるだけで、この貴重な城郭遺構が完存できたことを思うと残念でなりません。
ということで、次回は久能城です。
写真は、枡形状遺構、腰巻石垣、善福寺曲輪から富士山を臨む。

蒲原城縮小1


蒲原城縮小2

蒲原城縮小3
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