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2010-02-03

久能城に行ってきました

蒲原城に続き、家康の廟所として有名な久能城に行ってきました。この城の場合、遺構が残っていないと聞いていたので、これまで強いて行こうとしていなかった城の一つですが、今回は、「小説宝石三月号(2/21発売)」に掲載される短編『椿の咲く寺』の取材ということで、足を伸ばしました。
 さてこの城は、蒲原城が東海道、富士川、駿河湾監視の三役を担わされていたのとは異なり、せいぜい駿河湾監視だけが役割です(この城の最高所からでも東海道は見えません)。しかも、地形的に船溜りは置けなかったらしく、水軍城の持船城とセットで機能していたようです。
領国の内懐ということもあり、駿河国の主である今川家は、古くからある修験道場(久能寺)にほとんど手を加えず、物見砦程度の役割しか与えていなかったようです。それが変わるのは、駿河国が武田領国になり、今福浄閑斎が城代として入った頃からです。
 遠江国・諏訪原城の城代を経て、天正五年(1577)、駿河国の久能城に赴任した浄閑斎は、普請作事に力を尽くし、久能城を、岩殿、岩櫃両城と並ぶ、武田家三大名城の一つに数えられるほどの要害に造り上げました。浄閑斎は武田家滅亡前に病死しますが、家督を継いだ今福丹波守虎高は、武田家に忠節を尽くし、城と命運を共にしました。そういえば、蒲原城同様、この城も落城経験があるということですね。
 そしてご存知のように、家康はこの城を自らの墓所とし、久能山東照宮を造りました。その時に戦国期の遺構はおおむね破却されたと伝わります。
 ところがどうして、浄閑斎時代の遺構か、さらにその前代の修験道場時代の遺構らしきものが、城の西端に残っています。ただし、土塁や堀といった明確なものではなく、段々に連なる曲輪の跡という類のものですから、あまり期待は抱かない方がよいでしょう。
 この遺構を見る場合、お札などを売っている売店の方に、「愛宕社にお参りしたい」と言えば、売店裏から愛宕社まで続く道を歩かせてくれます。ちなみに愛宕社とはこの城の最高所を占める愛宕権現を祀った社のことです。ここからは駿河湾まで見渡せますので、かつて物見台があったことは確実です。遺構はこの愛宕社の西に連なっています。段曲輪というと、半円形の陣地のようなイメージをお持ちかもしれませんが、かなり広い長方形の宅地のようなものが五段くらい連なっています。西の端は断崖絶壁ということもあり、おそらく今福一族や家臣団の屋敷地として利用されていたものでしょう。ちなみに、この城は険しい山城を想像されがちですが、実は、山頂付近の削平地はたいへん広く、上ってしまえば、あまり山城という感じがしません。また御廟所のために造られた江戸期の石垣はふんだんにありますので、城という概念にこだわらなければ江戸期の石垣が楽しめます。
 むろんこの城から眺める駿河湾の美しさは格別です。それを見るだけでも、この城に上る価値はあると思われます。
 写真は、久能城遠景、御廟所の石垣(江戸期)、西の平場群。

久能城縮小版1

久能城縮小版2

久能城縮小版3

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