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2010-02-08

興国寺城に行ってきました

蒲原、久能に続き、北条早雲創業の城・興国寺城に行ってきました。私は、この城を訪れるのは三回目となりますが、以前来た時の茫漠とした印象とは異なり、各所で発掘作業が繰り広げられており、活気がありました。かつて城内三曲輪にあった石屋もGSも用地買収されて立ち退いていましたが、当時より賑やかな感じはしました。
 この城は、愛鷹山南麓の舌状台地の突端に築かれた平山城ということで、北条家の好むタイプの城の原型となったものです。しかも、元々、現在見られる城周辺の街区はなく、三方を浮島沼に囲まれていたので、当時は天然の堀に囲まれているというイメージだったでしょう。ちなみに韮山や小田原も同様の地形にあります。舌状台地と沼池という舞台設定こそ、鉄砲普及前の北条氏の好む地形だったのです。すぐ隣の舌状台地には、清水曲輪という一城別郭様式の曲輪が設けられており、もしも、早雲がこの地に長くとどまった場合、城は小田原と同様の発展形態を取り、背後の愛鷹山まで城域が広がっていったことでしょう。
 この城の場合も、今川、北条、武田、徳川という形で、所有者が変遷してきました。
早雲創業の城として著名ですが、早雲は、正確には今川家被官として興国寺城に入ったとされていますので(石脇城という説もあり)、正確には今川家の領有となります。つまり、今川家の番城時代が長享から永禄までの六十年余続きます。
富士川以東が北条家のものになってからは、垪和(はが)伊予守氏続が城代として入ります。それが五~六年くらい(意外に短いので驚き)。永禄十二年(1569)に武田家に制圧されてから滅亡までは武田家のものとなりますので、武田家の番城時代が十二年くらい。その後は、徳川(牧野康成)が八年、豊臣家(中村一氏)が十二年、徳川家(天野康景)が七年使い、廃城となっています。
 遺構は、徳川時代、特に最後の城主となった天野康景時代のものが大半と言われていますが、実際はどうでしょうか。
 関ヶ原戦後、この地域を豊臣家から取り戻した徳川家が強化すべきは、領国の西端であり、関東から東海道を領国とした徳川家にとり、この城はほとんど存在意義を失っているはずです。つまり、天野康景がどれだけ手を加えたかは疑問です。
 となると当然の帰結として、家康を関東に封じ込めた秀吉が、家康西上の最初の関門としてこの城の構えを強化しようとしたと考えられます。つまり、中村一氏の手になるものが大半かと思われます。
残念ながら、遺構からは豊臣系らしき特徴を見出すのは困難ですが(丸馬出に三日月堀もあったらしいし)、天守台、大堀切、大土塁などはいかにも戦国後期らしい豪快な規模です。特に、天守台が大堀切の中にせり出す感じで、横矢が掛かるようにしてあるのは秀逸です。つまり見せる天守というより、搦手守備の要としての大櫓としての役割を期待されていたのかなと思われます。
 発掘調査している方に聞いたのですが、遺物はほとんど出てきていないとのことで、この疑問はまだ解かれることはないでしょう。続いて葛山城&館へ。

興国寺城縮小1

興国寺縮小2

興国寺縮小3
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