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2010-02-11

葛山城&館に行ってきました

今回、最後を飾るのが葛山城&館でした。館は来たことがありましたが、城は初めてです。たいそう登ると聞いていたのですが、拍子抜けするくらい楽に着きました。
 こうした技巧的な山城はいいですね。この城も、越後荒砥城や信濃武居城といった地味ながらもしっかりと自己主張している城の一つですね。尾根続きの東西を二重堀切で遮断し、絶対に敵の侵入を許さないぞという堅固な意志が感じられるところなど、頑固な独立国衆の城といった気がしますが、実はこの葛山氏、風見鶏的立ち回りだけで存命を図ろうとしたがゆえ、次第に影が薄くなっていくのです。
 葛山氏は駿河国駿東郡に根を下ろした典型的な在地国人で、今川、北条、武田といった強大な戦国大名の狭間にあり、うまく立ち回って家を保とうとするのですが、あまりに日和見が過ぎたためか、信玄になめられて、当主氏元は殺されてしまいます。あげくに信玄六男の信貞を養子に入れられ、その独立性は有名無実化します。
というわけで、この城の原型は独立国人・葛山氏の手になるものとしても、現存する遺構は、かなり親会社の意向が反映されたものとなっているはずです。その親会社とはもちろん武田家です。武田家の領有期間も長い上、武田家好みの「山城に長い横堀」というあたりがその根拠です。
この横掘と言われている遺構ですが、実際は横堀としての機能よりも、防戦陣地(支撑陣地)としての比重が重かったと思われます(いたって浅いし)。つまり、平時は堀底道、敵が攻めてきた当初は防戦陣地として使用し、敵が城際まで迫ると、堀としての機能を求めたのではないでしょうか。
 年代比定ですが、北条家との緊張が高まった天正六年(1578)五月以降に、相当、手が入ったものと思われます。城域も広いので、駿東から北伊豆に出撃する武田軍の兵站を支えていたのかも知れません。
 館跡伝承地についても触れておきましょう。以前から、この立派な土塁のめぐる館跡は、葛山氏当主のものと伝えられてきましたが、果たしてそうでしょうか。当主館は仙年寺の場所の方がしっくりきませんか。詰城のある山懐に抱かれた南向きのこの場所こそ、城主館跡と考えるのが妥当ではないでしょうか。
 それではこの土塁に囲まれた地は何なのか―。
周囲には、葛山四天王と呼ばれる重臣団の館伝承地も残りますが、こちらには、堀と土塁の伝承はあっても痕跡はないようです。それゆえ、ここだけが土塁に囲まれていたことから、短絡的に葛山氏館跡と伝わってきたわけですが、詰城に近い位置に四天王の館があり、街道に面した地で、なおかつ葛山郷の入口付近にあるこの館跡が、葛山氏館であるはずがありませんよね。
 おそらくここは、武田家の物資集積地ではなかったかと思われます。当初は城を使っていたのでしょうが、年を経るに従い、この地域から北条氏の勢力が後退し、山頂ということもあり城は嫌われ、この地が、物資集積地としてメインに使用された気がします。
 ということで、”ときには歴女のように”、いろいろ妄想の膨らむ葛山城でした。
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