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2011-07-14

歴史小説専業作家の存在意義(長文失敬!)

先日、電車に乗っていて、若いサラリーマンの会話が聞こえてきました。
その中で、「最近は、コンビニの和菓子もうまくなったね」というフレーズが耳に残りました。和菓子屋の親父が泣いて口惜しがるような言葉ですが、よく考えると、身につまされる話です。
最近、ほかの分野で成功を収めた作家さんが、歴史小説を発表することが多くなりました。また歴史について、どれほど知識や洞察力があるのか分からないような若者が、恐れることなく「歴史小説」という看板の作品を発表しています。
こうした作品には、きっと学ぶべき点が多いと思い、私も読んでみるのですが、なぜか違和感があります。
それはなぜなのかと常々、考えていました。
自分の作品だと話しづらいので、ほかの歴史小説専業作家の作品を例に取って、話しましょう。
海道龍一朗氏の『天佑、我にあり』を読んだのですが、実に見事な作品で、これそプロの仕事と、膝を打ちました。
その内容に触れることは同業者としてしませんが、読んでいて気づいたことが五つほどあります。

A 知識の引き出しが多いので、話にふくらみを持たせられる
B 語彙や歴史用語の選択が的確で、文体にマッチしている
C 独特の空間演出ができている
D 文体が歴史小説仕様になっている
E グリップさせるポイントを心得ている

まずAですが、この作品には、様々な分野に深い知識や造詣がないと語れない類のものが多く記されており、その引き出しの多さに驚嘆します。話が横道にそれても、説明に過不足なく、「俺はこんなに知っているぞ」的な知識の羅列をしていません。つまり、「このくらいの説明で十分だろう」という薬の分量を知っている、腕利きの薬師というわけです。それだけでなく、その豊富な知識が付け刃でないことも、すぐ分かります。
ある時代作家さんの歴史小説に出てくる解説的なものが、一冊の研究本をネタ本にしていることに気づいたことがあります。「せめて異なる研究家の本、数冊からバランスよく持ってこいよ」と、私はため息をつきました。
多忙な他分野の作家さんが歴史物に手を出すと、こうしたことが起こりがちです。

Bは、難しい語彙なども、十分にその意味を理解している物だけ使っている点です。これが他分野からきた作家さんやNEO系だと、嬉々として難しい語彙や独特の歴史用語を使ってしまい、文章全体の雰囲気を壊してしまうのです。一カ所だけ難しい語彙を使って、ほかで使っていなかったらバランスが悪いですよね。また現代物のような文章の中で、難しい語彙を使っていたら違和感すごいですよね。ところが海道氏は、文体とのバランスを考えて語彙を選択しているのが分かります。つまり語彙選択のレベルが見事に統一されているのです。そうなると難しい語彙が多くても違和感なく、さくさく読めるのです。

Cは極めて高度な技なのですが、その小説世界に入らなければ味わえない独特の空間を作ることができる点です。これは風景描写一つ取っても、戦国時代なら戦国時代が骨身にしみて分かっていないと、できない至芸です。
例えば、現地の風景、当時の着物・食べ物・調度什器類・生活風習・習慣などの描写をせずにドラマだけ描こうとすると、次第に読者は、目隠しをされて本を読まされているような閉塞感を抱くようになります。
現代物を書いている作家さんが歴史物を書くと、この症状がよく出ます。単純に多忙で調査不足というのと、風景・光景が頭に浮かばないのでしょうが、それを泣きのギター(笑)でごまかそうとするから、なおさら粗が目立ちます。
それだけ空間演出力は、身につけるのがたいへんな技術なのです。

Dは、現代物を書いている作家さんが、なかなかまねのできないことなのですが、文体が歴史小説仕様になっている点です。文体のリズム感やゴツゴツした手触りといったものから、句読点の場所、クォーテーションの打ち方、決めセリフを言わせる場面でのタメといった、伝統芸的なものですが、これは、その道一筋で熟練しないと身に着かない高度な職人技なのです。

最後にEですが、どこで読者が共感できるか、どこでぐっとくるか、どこで武辺魂を熱くさせられるか、どこでカタルシスを得られるか、そういった歴史小説ファンの心理を隅々まで知り尽くした上で、書いている点です。これだけは、現代物を書いてきた(読んできた)作家さんには、まねのできないことなのです。
なぜかって?
グリップさせるポイントを摑む感覚は、子供の頃から時代・歴小説を徹底的に読み込んでいないと、身につかないからです。これは、年を取ってから楽器を習っても一流になれないのと同じです。
かつて『新選組血風録』で、司馬先生は篠原泰之進にこう言わせました。
「この場は、切腹しておいた方が無難だろう」
(本が見つからないので、セリフが微妙に違っていたらごめんなさい)
もう説明の必要はありませんね。このセリフだけで、高校生だった私は卒倒しました。
この一文に、武士の生き様のすべてが込められているからです。

こうした要素が複雑に絡み合い、歴史専業作家による本格歴史小説は生まれます。
同じ和菓子でも、老舗和菓子屋のものは、材料も製法も手間も、コンビニで売っている物とは比較にならない次元にあるのです。
ちなみに私は海道氏との面識はないので、友人をよいしょしているわけではありません(笑)。
いずれにしても、NEO系歴史小説が市民権を得た今、歴史小説分野にも、他分野の作家さんや、怖いもの知らずの若者が、どんどん参入してくることでしょう。
何があろうと、誰が来ようと、本物の和菓子の味の分かる読者がいる限り、「どっからでもかかってこい」と言えるのですが、そうした目利きのような読者が激減しつつつあることも、また事実です(児玉清さんがお亡くなりになられたように)。
コンビニの和菓子の方が和菓子屋の和菓子よりもうまいと思っている若者も、とみに増えてきた気がします。
ちなみに『天佑、我にあり』は、第一回山田風太郎賞の候補作まで行きました。
手前味噌で恐縮ですが、『戦国鬼譚 惨』も第三十二回吉川英治文学新人賞の候補作になりました。
なぜそうなのかを、もっと理解していただきたいのですが、まあ、和菓子の味の違いが分かるようになるには、いろいろな和菓子を食べなければならないので、実に難しい話でもあります(笑)。
いつか和菓子屋の親父たちも、生き残るために、コンビニの和菓子の味をまねる日が来るかもしれません。
そうならないことを祈っていて下さい。
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伊東潤

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