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2009-12-06

八王子城搦手オフ【復刻版】

2009年3/29(日)、「八王子城搦手オフ」が開催された。今回、ガイドいただくのは、七十四歳になられる八王子城研究の草分け”前川實先生である。先生の著作「幻の八王子城」は、1988年に出されたものだが、今、読んでも新鮮で、驚かされることだらけである。
今回は搦手ということで、二十三名の参加となった。搦手だけでこの人数はすごい。
心源院に10:30に集合し、前川先生の解説を聞き出発。今年は「天地人」もやっているので、天正十八年の八王子攻めのルートを中心に解説するとのこと。その割には、先生、景勝と兼続をよく間違える(笑)。
心源院は東に並ぶ小田野城とともに搦手を守る要害の一つ。武田家滅亡の折、仁科盛信の姉である松姫が高遠城から逃れてきて隠棲したことでも有名。当時、ここには舜悦朴山という偉い禅僧がいらして、百二十歳の長寿をまっとうしたとのこと。一般に寺の記録には、いい加減なものが少ないので事実と思われる。また、心源院は要塞型寺院としても一見の価値あり。前川先生には四脚門のところの枡形虎口を説明していただいた。
 続いて、案下街道に出てから松竹方面へ。
 北浅川対岸には浄福寺城がある。こちらも搦手を守る要害の一つ。実は八王子城築城以前から、在地国人大石氏の詰城として、この城は案下道に睨みを利かせていた。案下道を押さえる場合、東から小田野、心源院、浄福寺城の三拠点で十分であったろう。そうした意味からも、深沢山に築かれた八王子城は小仏道を押さえる役割だったことが、はっきりわかる。浄福寺城は遺構が多く、それだけで一日かるので、今回はパス。
 松竹神社に到るまで、旧道を教えてもらう。旧道はくねくねと曲がりながら、新道と交錯しながら松竹神社まで続いていた。曲げている意味は説明不要でしょう。ここで鉢巻石垣と腰巻石垣の違いについて説明を受けた。鉢巻とは上部が石垣で下部が土塁のもの、腰巻は逆である。「腰巻というと変な想像をする人がいるかもしれませんが―」という冗談に誰も反応せず。「先生、それは大正時代の冗談すよ(笑)」と突っ込みを入れる私。この辺りは、先生が三十年前に回った時は、ただの雑木林で、馬出まで確認できたというが、今は住宅地と化している。
 松竹神社は上下二段の曲輪を持つ要塞神社である。というか、元々は搦手口を守る番所曲輪であったようだ。ここには城門があり、八王子市内のどこだかに移築され、最後は歯医者が買って、今はないとのこと。松竹神社のところで道が絞れており、確かに城門はここにあったはずである。松竹神社にはカタクリの花の栽培地があった。
 ここから奥に進むに従い、左手にそびえる大六天曲輪の尾根が近づいてくる。今回は行けなかったが、この尾根上にも多くの削平地がある。私は前川先生とともに、四年前、心源院の裏からこの尾根を登ったことがある。確かに搦手口を見下ろす場所にあり、搦手を進む敵の姿を視認できる。まさに、大手道と太鼓曲輪の関係と相通ずるものがある。やはり三十年ほど前は、この尾根の底部、西側面に多くの複雑な曲輪が確認されたという。今は造成によりほとんど煙滅してしまったが、三十年前から始めた前川先生の調査により、復元図の上では再現されている。まさに、太鼓曲輪側面(飯田氏宅の裏辺り)と同様の段状になった複雑な遺構が見える。前川先生はここを「連郭式砦遺構」とよんでいる。
続いて、北浅川の支流である滝の沢川を隔てて(左岸)土塁が見えてくる。虎口を守るために、川を隔てて横撃できるようにしていることがわかる。さらにその裏には、膝窪と呼ばれる”勢隠し”がある。今回は見られなかったが、扇状の比較的大きな曲輪で、眼下の土塁に詰める兵士たちの駐屯地であったのかも知れない。ちなみにこうした地名は、前川先生によると、三十年前はこの辺りにはよく”きこり”を生業とする方々が多くいて、その方々が習慣的に呼び合っていた名を冠しているという。どうしても地名がない場合のみ、先生が地形から名称をつけているという。
さらに奥に進むと二股に分かれた虎口に到達。以前はここから自然豊かな山林という感じだったが、今は違法資材置き場となっている。右を行くと滝の沢だが、そこは帰路に見ることにして、左の道を進む。すぐに左手に見えてくるのが、東沢の段状曲輪群である。削平が不十分(谷川に傾斜している)なのは、城方の突撃に加速がつくようにしているという先生の説明である。私が「それでも居住性が―」と突っ込むと、先生は「ここは普段はまったく人が詰めておらず、戦時のみ、最上部の”勢隠し”に詰めていた兵たちが逆落としに攻めてくる」とのこと。同様の傾斜地は山中城にもある。あれは普請が間に合わなかったと聞いていたが、実はこんな仕掛けを考えていたのかと驚く。しかしな―(笑)。
ここは上部に炭窯が残っていた。滝の沢川際の曲輪まで降りて昼食となる。
昼食後、さらに奥に進む。この辺りは細久保谷とよばれる搦手最終拠点である。先生は搦手本営と呼んでいる。ここをさらに進むと、水汲み谷津を経て詰城に出る。私は以前に行ったことはあるが、今回はパス。本営の背後には竪堀が落としてあり、これ以上、先には進ませないぞという強い意志が感じられた。この辺りにも炭窯が点在しているが、以前は五つはっきりと残っていたものが、今ははっきりしているのは一つだけになっていた。私も四年ほど前に来た時は、もっとあった気がする。この辺りで前川先生が「平井無辺が兼続に勧めた隠し道」について説明いただいた。平井無辺の存在とこの道こそ、八王子城が一日にして落城してしまった原因となったものである。
前川先生の八王子城解説本の出版も控えているので、この説明はパスさせていただく。
いったん道を戻り、青龍寺谷へ。自然地形か人の手の入ったものか、不確かな地形がいろいろある。青龍寺跡地は下草の刈り込みが行われていたので、以前に来た時はわからなかったそのスケール感が掴めた。でかい曲輪です。
さらに滝の沢に回り、大型の段状曲輪を下から眺める。こちらは私も初めてである。ここを少し戻ると虎口遺構もある。私も今までその存在を知らなかった。見事な内枡形が石垣とともにあったことを確認。復元すれば形状も大きさも滝山城のものに類似している。前川先生いわく、「どうしても敵を谷に入れない」という方針が徹底されている典型的事例の一つとのこと。
山を下り、松竹神社の西に広がる推定屋敷跡地を見学。こちらは、以前は中に入れたが、今は入れない。私も中に入った記憶がある。またここは、崩した石垣を堀に埋めるという暴挙があった地でもる。前川先生は、歴史遺物の保護に熱心でなかった”かつての”八王子市の対応に憤慨していた。
眼前の公園では子供がサッカーに興じている。その向こうを筒状のドームに囲われた中央高速が深沢山を貫いている。まさに過去と現在と未来が入り混じっている場所である。
 心源院に集合後、クルマで小田野城へ。公園から入るルートである。すぐ前が枡形虎口だというが、にわかにはわからない地形になっている。これは、戦時中に本曲輪を削平した折に余った土などで埋められたものを、最近、発掘させたらしい。しかし、地形が改変されていることは間違いなく、枡形の残像すらもわからなかった。新聞には「枡形虎口出土」の活字か躍ったということなので、間違いはなさそうである。
小田野城は、戦時中、農地を増やすために本曲輪部分が削り取られ、今は縄張りのわからない城となっている。まさに神奈川砲台のために山頂部分を削り取られた権現山城のようなものである。わずかに残る藪に入り、地形的特長の説明を受ける。この城は、八王子築城以前は案下道の関城だったとのこと。前川先生曰く、「足柄や山中のような街道封鎖の役目を担わされていた」とのこと。
公園に戻り、解散となった。
 ということで、無事に搦手オフは終わった。大六天曲輪には行っていないので、搦手完全制覇とは言い難いものの、まずは見所をカバーできたと思っている。前川先生曰く「八王子城を全部見るには四泊五日」とのこと。
 今回は難易度の高い搦手ということで、前川先生に案内を依頼して大正解だった。やはり搦手は、私では荷が重い(笑)。
 いずれにしても、残された遺構を守っていくのはわれわれ仕事である。かつて搦手で敵の大軍を引き受け、玉砕した農兵や修験者のためにも、この谷に「開発という」敵を入れないようにするのが、われわれの使命なのだ。
追記
今回の搦手オフにより、以下のことが見えてきた。
深沢山は高尾駅側からは独立峰に見えるが、北の搦手に向かって尾根が連なっている。つまり、心源院砦が破られれば、搦手の尾根沿いに敵の侵入を許す可能性がある。また、幾筋もの谷が深く切れ込んでいるため、そこからも敵の侵入を許しやすい(結局、そうなった)。
それでも、築城を開始した元亀年間当初は、小田野城、心源院、浄福寺城により、「搦手の谷に入り込まれることはあるまい」と高をくくっていたのであろう。当時の仮想敵は、案下街道を東進してくる武田信玄率いる甲州勢である(大手なら小仏道)。最大兵力二万としても、火力はそれほどでもなく、浄福寺城だけでも十分に防げる。しかも元亀年間の甲州勢では、いかに戦国最強とはいえ、兵力的に大手と搦手同時攻撃は限りなく不可能であるので、どちらかの攻め口に守備兵力を集中できる。
しかし、秀吉の大軍の来襲が予想された天正十八年には、状況は一変していた。敵との兵力差は圧倒的で、しかも装備にも練度にもかなりの差がある五万の軍勢が、押し寄せてくるのだ(城方は、主力四千が小田原に連れて行かれたため、二千の専業武士と三千余の農兵と修験者のみ。特に搦手は修験者主体)。
城方は搦手防衛線を徹底的に堅固にせねばならなくなった。その結果、搦手に針鼠のような曲輪群が築かれた。しかし、信玄に攻められた小笠原氏の林城、信長に攻められた六角氏の観音寺城の例を引くまでもなく、どれほど巧緻な縄張りを持っていても、守備兵力を念頭に置かない縄張りは、守備にめりはりが利かせられず、結局、意味をなさないものになる。当時の築城担当者が、それをどれほど意識していたかはわからないが、現実として、捨て曲輪だらけになってしまったのである。
しかし逆に考えれば、守備兵力の想定云々は別にしても、これだけ手を入れなければ、敵の谷への侵入を許してしまい、到底、守り切れない城だったのかもしれない。つまり、先に「縄張りありき」という考え方だったのかも知れない。または守備兵力の一点集中から順次撤退という構想の下に造られたのかも知れない(兵力漸減の法則により、落城覚悟の戦術だが)。
だとすると、ここに築城したこと自体が間違いだったのかも知れない。

写真は、心源院、搦手に残る腰巻石垣、搦手遠景
心源院縮小版

八王子城搦手腰巻石垣縮小版

八王子城搦手遠景縮小版
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